同居人 遅い。綱吉は、テーブルを苛立たしげに指で叩きながら、小さく溜息をついた。ファンファン、ともカンカン、ともつかない音を立てながら、薬缶は向こうで湯気を吐いている。 恭弥が遅いのはいつものことだ。昨日今日の話ではない。いつもいつも待たされるのは綱吉で、待たすのは恭弥。それが、両者間の常識にすらなり始めた。 しかし、だからと言って、待たされるのを良しとする訳ではなく、やはり嫌になる。折角作った夕飯も、すっかり冷め切ってしまった。勿論、恭弥が遅くなることを分からなかったわけではない。それでも、早く帰ってこないかと、内心期待していたのだ。 「うううう、恭弥さんは馬鹿だ・・・・。もう十二時になるっていうのに・・・・」 時計を見て、また溜息をつく。時間を確認すればするほど、眠たくなってくる。溜息と眠気ですっかり疲れてしまった。とはいえど、寝るわけにもいかず、いや寝てもいいのだが、寝て待つと、恭弥の機嫌が悪くなるのだ。 二人が同居を始めて、来年の春で一年になる。まだ一年にも満たない、僅かな年月しか寝食は共にしていないのだが、それでも恭弥の事は色々と分かった。風呂は一番風呂に入り、他人が浸かった風呂には入らず、熱いのが好きで温いと怒る。朝食は味噌汁とご飯、それ以外は認めない。塩辛い物が好きで、甘い物は捨てる。他にも色々と分かった事はあった。二人が生活していく上、いや、綱吉が生きていく上で、最も重要な情報達だ。 綱吉は、よく思う。よくこんな環境で逃げ出さないよなぁ、と。ずっと我慢している自分を、不思議に思うのだ。それほどまでに恭弥は、自己中心的な人間だった。 恭弥と付き合っていく中で、溜息は常だ。気付けば溜息を漏らしていて、どうにもままならない。また一つ溜息をついて、綱吉は玄関を見つめた。しん、として、誰の気配もしない玄関では、大量に飾られた百合の芳香が漂っている。 外で、男たちの笑い声がする。夜中だというのに、大きく笑う男たちは、酔っているのだろう。綱吉はその笑い声につられて、ベランダに出た。常時置かれているビーチサンダルをつっかけ、アルミなのか鉄なのか、金属で出来た柵に、肘を置く。 綱吉は、ここから眺める景色が好きだった。眼下では、民家の明かりがところどころで瞬いており、夕刻の活気が嘘のようだ。日付が変わった頃合だから、ということも、あるだろう。先ほど笑っていた男たちの姿を、目を凝らして捜してみるが見当たらず、綱吉は一人肩を竦めた。夜風が寒い。薬缶が鳴り出したこともあり、慌ててビーチサンダルを脱ぎ、部屋へと戻った。 「あちっ」 薬缶のお湯を電気ポットに流し、入りきらなかったお湯でココアを作った。甘い物なら、匂いも味も駄目な恭弥に遠慮して、日頃飲めないからである。恭弥とは正反対に、甘い物が好きな綱吉は、ココアの香りだけで、癒されていくのを感じた。 綱吉が幸せな気分でココアを飲み終える頃、玄関の方で物音がした。恭弥が帰ってきたのだ。綱吉は跳ねるようにイスから立ち上がり、玄関へ飛んだ。 「おかえり、恭弥さん」 恭弥は黙ったままカバンを綱吉に突き出し、綱吉も黙ってそれを受け取った。おかえり、という言葉に、恭弥からの返答はない。同級だが、自分より数センチ高い顔を見上げ、綱吉は溜息をついた。 帰ってきてからの恭弥の一言は、換気したの、だった。 「灯油の臭いがする。甘い物の匂いもする、気持ち悪い」 綱吉は、慌てて換気扇を回しにキッチンへと走る。恭弥はその綱吉に目もくれず、窓を開けた。冷たい風に眉を顰め、上着を脱いで片隅に放ってあったハンガーに着せると、それを窓枠に掛けた。 「恭弥さん、晩ご飯どうする?」 キッチンから綱吉が呼びかけると、別にいい、という返答が返ってくる。綱吉は皿からラップを取り外そうとしていた手を止め、元のように戻すことにした。どうやら、今晩の夕食は、明日の綱吉の朝食になりそうだ。換気扇を止めて、キッチンを出る。 リビングに戻れば、恭弥が新聞を読んでいた。朝早く出て、夜遅く帰ってくる恭弥には、新聞を読む時間が今しかないのだ。恭弥のために入れたお茶を、テーブルにそっと置き、向かいに座る。テレビをつけようかとリモコンに手を伸ばし、止めた。恭弥はテレビを嫌う。テレビだけでなく、騒がしいものが嫌いだ。綱吉は窓を閉めてから再び席につき、手を組んで、そこに顎を置いた。その格好で恭弥を眺める。 端麗な容姿で、大学でもモテているのだろう、と綱吉は思う。涼やかな目元や、濡れ場色の髪、均整の取れた体つきなど、とにかくすべてが麗しい。中身は相当扱い難いのだが、外見で誤魔化してしまえるだろう。それほどに、恭弥は見目が良かった。唯お茶を飲むだけでも余程麗しい恭弥に、綱吉は憤るでもなく、口惜しがるでもなく、呆れる。これで頭が良いというのだから、恭弥さんはほとほと困りものだ、と。 「沢田、浴槽は洗ったの?」 冷たい光を帯びた瞳に見られ、綱吉はハッとした。我に返って、一瞬戸惑ったように口を開き、首肯する。 「そう。ならいい。僕は風呂に入ってくる」 「分かった」 綱吉と恭弥は立ち上がり、それぞれに浴室、和室へと向かった。 二人の住むマンションは、県内でもなかなか高価な事で有名だ。恭弥の実家が大変な資産家であるらしく、綱吉は殆ど金を払わず、恭弥が大半の金を出した。二人の金を合わせて一括だ。 同郷の馴染みというだけで、こんなによくしてもらっていいものか、と当初はおたついた綱吉だったが、今では慣れてしまった。今更出て行けと言われても、毛頭そんなつもりはないし、綱吉が家事全般を負担しているから、これでイーブンである。それに、この家は使い勝手が良くて気に入っているのだ。何せ、一人ずつの部屋がちゃんとある。 ベッドでは寝ない恭弥のために、恭弥の部屋に入って布団を敷く。逆に、綱吉はベッドだ。実家から持ってきたものである。 恭弥の風呂は長い。女性に勝るとも劣らぬ入浴時間で、よく上せないものである。その間、綱吉は皿を洗ったり布団を敷いたりして、一日の家事を終える。今日は、皿洗いも一人分で、炊飯器をしかけても時間が余った。 「味噌汁作るには、時間足りないし・・・」 リビングに行き、テレビをつける。恭弥が上がるまで、深夜番組を見る事にした。早いところでは、既に番組終了してしまっている。時刻は、一時に近い。 見始めてから十分程して、恭弥の声が聞こえた。 「沢田。入れば」 テレビを消され、綱吉は頷き立ち上がった。恭弥は、いつもの黒い寝巻き姿である。綱吉が浴槽へ向かうと、恭弥も歯を磨くために浴室にやってきた。カーテンを引き、服を脱ぐ綱吉の耳に歯を磨く音が聞こえてくる。 いつもの癖で、体重計に乗った。電子体重計は、滅多に壊れる事がなく、綱吉が実家から持ってきたものだった。 「うぎゃ」 綱吉は奇妙な叫び声を出していた。特に多く食べた物もなく、普段通りにしていたというのに、体重が増えている。 呆然とデジタル文字を見ていると、くっという笑い声が聞こえた。その笑い声で我に返る。 カーテンに、頭から下を隠すようにして、恭弥を見れば、こちらを見ている恭弥の姿があった。目どころか、口元も笑んでいる。綱吉は僅かに眉を吊り上げ、恨めしく「恭弥さん、」と呻いた。 「足、乗っけてただろ」 「さぁ」 「すっごい驚いたんだけど、俺!」 うーっと低くうなると、恭弥は口元に手を当てて笑った。可笑しくて堪らない、という様子の恭弥に、最初からこれっぽっち程しかなかった怒りは、簡単に消えてしまった。綱吉も、くすくすと笑う。 恭弥が浴室兼洗面所から出て行くと、綱吉は改めて体重を量りなおした。普段と全く変わらない体重に、綱吉はほっとしつつも可笑しくなって、笑う。どうやら恭弥も、あんな悪戯をする程には、機嫌が良かったらしい。大学で、何か良い事でもあったのだろうか。 風呂に入るのも、ココアを飲むのと同じくらい癒された。特に、最近は冬本番も近づいているから、尚更である。浴槽にゆったりと浸かって、体の芯まで温めた。思わず鼻歌を歌いそうになり、慌てて口を噤んだ。もうそろそろ、恭弥も寝た頃だろう。煩くして、恭弥に起きられるのは得策ではない。それでも、小さな音でふんふんと歌いながら、綱吉は入浴を満喫した。 頭をタオルで拭きながら、和室をそうっと覗けば、案の定恭弥は眠っていた。顔は暗がりで見えないのだが、人一人分に膨らんだ布団が、規則正しく上下している。開けた時と同様、静かに襖を閉めて、綱吉はおやすみ、と呟いた。聞こえないのは重々承知の上である。 やっと、一日にやるべき事が終わった。ガス栓も閉めた、鍵も閉めた、恭弥さんも寝た。綱吉は一回一回頷きながら確認する。後は、綱吉自身が眠るだけだ。リビングの電気を消し、綱吉は自身の部屋へと向かう。急に眠気が襲ってきて、綱吉は布団に入ると直ぐに眠った。夢見心地で、恭弥の「おやすみ」という声が聞こえた気がした。 こうして、二人の同居生活の一日は終わり、マンションの一室の明かりが消えた。午前二時を回った、真夜中である。空には、冬特有の星々が、瞬かんばかりに輝いていた。 |