まとわりつくような湿気に吐き気を覚えた。 この時季に入ると、毎年起こる症状だ。急激に襲ってくる湿気に、気分が悪くなる。 口元を押さえてよろめけば、自分のプライドが崩れるため半ば小走りで応接室へ飛び込んだ。 梅雨の日の幸 綱吉はしっとりと露がこぼれる窓を見、深くため息をついた。 雨の日というものは、何もなくても気落ちするものだ。 それも補習で残っている綱吉には、雨と補習の二重攻撃だ。手の中にあるプリントが鉛のように重い。 もう一度窓の外を見ると、眉をしかめて綱吉は歩き出した。 廊下は湿気のためぬるぬるとしており、時折足を滑らせる。綱吉はその度に声を漏らして、バランスを取るべく両手を広げる。プリントが落ちないようにするだけで精一杯だ。 壁にも湿気が渦巻いており、どこにも支えられず廊下を進むしかない。 「今日も雨だなぁ・・・」 事実を口にすることで、さらに綱吉は気落ちした。 その丸い両目がふと、応接室を捕らえた。 つい最近までは雲雀が恐ろしくて近づけなかった場所だが、今はなんとか雲雀とうまくやっている。 教室へ戻る前に立ち寄ってみようと綱吉は上履きを滑らせながら応接室の扉をたたいた。 応答はなく、扉に耳を付けてもカタリとも音はしなかった。 不安にかられて綱吉は俊敏な動きで扉を開けた。部屋の中は、開け放たれた窓からリズムを刻みながら雨が吹き付けており、その雫で床に水たまりができていて、まさに台風状態であった。 窓を閉めようとあわてて駆け寄ると、中央に置いてあるソファーに目が行く。 「ひ、雲雀さん」 雲雀はソファーに汗だくで横たわっていた。 その顔にはいつものような不敵な微笑みはなく、どこか苦しげで唇は青白かった。 すっと綱吉は雲雀の額に手を当てると、自分の体温と比べた。熱はないみたいだ、と呟くと胸に手をおいて動悸を調べる。やや早めだが、危険な状態ではない。 安定した呼吸をしているか調べ、やっと安心すると、今度は窓を閉めた。 いつもの綱吉に似合わない迅速な対応だった。 床に広がった書類を集め、机の上へまとめて置く。どうせ内容がわからないのにまとめたって、二度手間だろう。雲雀の横顔を見つめながら綱吉は、心配そうに椅子へ腰かけた。 当分はここで様子を見るつもりだ。補習のことなんか頭からすっ飛んでしまった。 窓をたたきつける雨音に耳を澄ませて目をつぶる。 「綱吉、なにやってるの」 ふいに声をかけられて綱吉は反射的に振り向いた。ここだよ、と不機嫌そうな雲雀の声が聞こえる。 雲雀のほうへ目を向けると、鋭い眼を潤ませながら綱吉を見上げていた。 「雲雀さん大丈夫ですか」 「毎年この時季はこうなるんだ。すごい吐き気に襲われて頭が割れるみたいに痛む」 端整な顔を苦しそうに歪めながら雲雀は額へ手をあてた。 さきほど目をつぶり、体に力が入らなかったとき、暖かい感触を額へ感じたからだ。柔らかくて、暖かくて、安心した。雲雀は額を指でなでた。汗が少し滲んではいるが、体調はずいぶん良くなった。 上半身だけを起こすと、肩から学ランがずり落ちた。 「まだ安静にしててください」 綱吉に肩を押される。雲雀はソファーへ倒れこんだ。弾力で跳ね返され、小さくうめき声を漏らす。体長は良くなりつつはあるが、完治してはいない。いつもなら綱吉の力では微動だにしないが、体調が不完全な今は簡単に押さえつけられてしまう。 汗で張り付いたカッターシャツが気持ち悪かった。 ふいに雲雀の目に綱吉の補習プリントが映る。空欄の数のほうが明らかに勝っていて、雲雀は深くため息をついた。補習へ行かせるべきなんだろうが、綱吉は絶対に出ていかないというオーラを醸し出している。仕方がないので雲雀は綱吉に手招きした。 小股で近づいてくる綱吉の手から補習プリントを奪い取ると、雲雀は右手を出した。 そこへ丁度シャープペンシルがのっけられる。それを握りなおすと、雲雀は数式をすらすらと綴っていった。その様子を綱吉は感嘆したようすで見つめていた。 「すごいですね、雲雀さん!俺こんなの全然分かんないのに」 「教えてあげるからもうちょっとこっちに来なよ」 「あ、はい」 キャスターのついている椅子を雲雀の横たわっているソファーへ近づけ、綱吉は雲雀の持っているプリントをじっと見つめた。整った文字で書かれている数式は分かりやすく、答えまでの道のりが安易に理解できた。 「説明するからもっと寄って」 そう言って雲雀は綱吉の腕を強引に寄せた。椅子はバランスを崩しながらも綱吉を安全にソファーへ近づけた。雲雀は低めの声で説明をし、綱吉にいい?となんども尋ねた。その度に、綱吉は返事をし、分からないところはもう一度説明を頼み、少しずつ自分で問題を解いていった。 最後には雲雀が何も言わなくても解けるようになり、嬉しそうに声を上げた。 「分かった!雲雀さん分りましたよ」 5分ほど自分で解いた問題を見直して雲雀へ話しかけると、安定した寝息が聞こえた。綱吉はつつ、とソファーをのぞきこみ、幸せそうに微笑んだ。 雲雀は静かに胸を上下させて、深い眠りについていた。 「じゃあそろそろ出よっかな」 綱吉がプリントをまとめて出て行こうとすると、強く腕をつかまれた。 「勝手に出ていかないでよね」 「でも寝てるみたいだったし」 責めるように言われて綱吉はいいごもるが、雲雀はそんなことお構いなしに綱吉を椅子へ座らせた。 気分はずいぶんいい。 あたふたとしている綱吉をしばらく見つめてから雲雀はつぶやいた。 「帰ろうか」 そう言って雲雀は学ランを肩へかけなおした。ふんわりと綱吉の香りがする。さっきまで綱吉の膝へかけていたからだ。少し残っている温もりがやけに暖かく感じる。 「でも補習が」 不安そうに言いかけた綱吉に不敵な笑みを浴びせ、雲雀は立ち上がった。 「そんなこと、僕が一言いえば全部なし」 乱暴な動作で鍵をポケットへねじ込むと、雲雀は扉を開けた。 向かいの廊下の窓が見える。綱吉はあわてて応接室から出ると、あ、と小さく声を上げた。 「雲雀さん、雨やんでますよ」 「そうだね」 窓の外には雨の滴にきらきらと反射して輝く空が見えた。 「ほら、早く」 綱吉を急かしながら雲雀は日の光に目を細めた。 眩しい太陽に目がくらむが、すぐに目の前の少年に視線をうつす。雲雀の気分のように晴れ渡った空は、さっきまでの雨が嘘のように輝いていた。 「気分が悪くても君が来てくれるなら1日ぐらいは我慢しようかな」 「え、なんか言いましたか?」 不思議そうに尋ねた綱吉に微笑んで、雲雀は扉を閉めた。 明日は、晴れだったらいいね。 |