夏の庭



アーサーの庭は、夏になると薔薇が咲き誇る。美しく、赤白が多様に散らばる様は、アーサーのお気に入りでもあった。時折、自身も鋏を持ち、花に鋏を入れ、優雅に重たく花弁を垂れる薔薇を、家の中に入れることもある。また、広大な庭は多種多様の花を誇っており、季節ごとに花を咲かせた。この庭園は、庭師が手を入れたりもするが、アーサーも世話をしている。特に、薔薇は丁寧に栽培している。
 時折訪れる日本人の少年も、同じようなことを言う。
「カークランドさんの庭はとても美しいですね。いつ来ても花で満たされています」
 その少年の名を、本田菊と言った。日本人の彼が英國に来るのには多大な金が掛かるが、広壮な日本家屋に住む富豪の子供であったので、菊は一ヶ月に一度、一週間程滞在することがあった。アーサーも半年に一遍程の頻度で出向くが、菊が英國に来る事の方が遥かに多い。
 この日も丁度、菊が英國に来て四日目、週の半ばだった。
 二人は庭に出て、大木の作る影の中に居た。木陰を生み出す大木に作られた簡易のブランコに、菊は座っている。風に葉が揺られ、時折木漏れ日も揺れた。その度に、菊とアーサーの頭上がちらりちらりと輝く。アーサーはそれを見ながら、菊が輝いている様だ、とこっそり思った。
 芝生に座っていたアーサーは、貴族然とした格好で居る事を、執事やメイドやらから強要され、せめて、と譲歩したカッターシャツとベスト、それにネイビーブルーのネクタイを合わした姿だ。膝丈のズボンも、決して派手だったり自己主張が強かったりすることもなく、控えめにアーサーの体を着飾っている。それら全ては安いものではなかったが、アーサーは汚れることも構わず、芝生に座っていた。
 暑くて――それもその筈、日本ならば夏と言われる季節だ。熱くなければ異常現象に違いない――、袖のボタンを外し、袖を折り曲げる。どうも巧くいかないが、そのままグッと上に押し上げた。
「菊、」
「あ、はい。何でしょう?」
 ブランコに座り、周囲の眺めを見ていた菊は、上品な動作で振り返り、小さく首を傾げた。その仕草に、胸の高鳴りを覚えながら、アーサーはあのさ、と続ける。
「ムクゲ、いらないか」
「え、ムクゲ、ですか?」
「そう」
 何のことかいまいち理解していないような菊に、アーサーは庭に咲いている花だと説明すると、懐から鋏を取り出した。庭で綺麗に咲いた花を見ると、どうしても屋敷に持って帰りたくなるため、そうして持っている。
「頂けるのなら、是非。アーサー君の庭の花は、とても綺麗に咲いていますから、私も欲しいです」
 ニコッと菊が笑うと、アーサーは詰まった。それからお前のためじゃないぞ、だとか庭に花が多すぎて栄養が足らないんだよ、とかいろいろな言葉が頭の中をグルグルと廻ったが、全部言葉にならず、結局言葉になったのは、
「そうか」
それだけだった。菊の嬉しそうな顔を見るのが恥ずかしくて、すぐにムクゲのある場所へと向かった。待ってください、と後ろから菊の声が聞こえ、少しだけ歩調を緩めてから振り返ると、着物では走り難いだろうに、あまり速くもない速さでアーサーへと追いつき、また微笑んだ。
「私も、連れて行ってください」
 アーサーが無言で頷くと、あ、と小さく声を漏らす。何だろう、とアーサーが不審げに見つめると、菊は徐にシャツの袖へと手を伸ばした。細い指先がアーサーの肌を掠る度に、体を震わせる。
「綺麗に曲げないと、服が皺になってしまいますよ」
 もう、と呟くと、丁寧に曲げる。ゆっくりとした動作で綺麗に曲げていくのを、アーサーは身を硬くしながら見ていた。正確に言えば、菊の旋毛と指先の間をうろうろと正体無い様子で、視線を彷徨わせている。よしできた、と菊が嬉しそうに零すのと、アーサーが息を吐くのは同時だった。
 ムクゲを採り終わって、屋敷の中に持って行ってからも、二人は庭で遊んだ。家の中から持ち出した本を、菊は小脇に抱えている。
「アーサー君、」
 菊に呼ばれ、ん?、と小さく問いながら、アーサーは菊へと体を向けた。菊は仕立ての良さそうな藍の着物を着て、行儀良く座っている。良家の子息らしく、足を揃えていた。
「是非、本を読んで頂けませんか。私はまだ、そこまでスラスラ読めないんです」
 日本語の訛りが抜け切らない、しかし由緒正しき英國のクイーンズ・イングリッシュは、アーサーが教えたものだ。菊は真面目だったし、とても頭の良い子供だったから、今では日常会話は何ら支障なく話す事が出来た。しかし、やはり読み書きはまだ苦手なようで、菊はアーサーの家に来ると、時折このように朗読を頼むこともある。
 おずおずと差し出された本を受け取り、アーサーは表紙、裏表紙を何回か見て、小さく呟いた。
「マザーグース?」
 その声を聞き届けなかったらしく、菊は静かに座っている。しかし、視線をゆっくりと巡らせた後、あの、とアーサーに声を掛けた。懐かしさからページを捲っていたアーサーは、肩を震わせて菊へ視線を向けた。
「こちらに来て読んで頂けませんか?そこでは、せっかく読んで頂けるのに、聞こえないかもしれませんし、」
 ですから、と付け加えてブランコの片側へと体を寄せ、一人分の空白に手を置くと照れたように笑う。
「一緒に座りませんか?」
 声を掛けられたアーサーは、一瞬間キョトンとしてから、少し顔を紅潮させてああ、と頷いた。
 緊張しながら、アーサーがブランコに腰掛けると、フフッと菊が笑う。傍らの熱を幸せに思いながら、表紙を開いた。
 菊はアーサーの読む速度に追いつくと、必ずページを捲った。細い指がページを捲り、少しからだが近づく。菊が渡した本は、毎ページ事に挿絵がついており、その挿絵だけでも見れるようになっていた。その絵が見たいのか、菊は身を寄せ、アーサーの膝に置かれた本を遠慮がちに覗き込む。その体から、百合の香が流れているようで、どうも落ち着かない。アーサーは、苦し紛れに体をずらして、本を朗読し続けた。
 そうして十分程経ち、表紙を閉じる。菊は嬉しそうに微笑みながら、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。いつ聞いてもお上手ですね」
「い、いや、そんなことは、ないけど・・・・」
 照れたように視線を地面へ投げると、とてもお上手ですよ、と菊が言う。
「私、アーサー君の声、とても好きです。柔らかくて優しくて、」
 ふふっと菊がアーサーを見上げた。それから逃げるように、顔を横へ向ける。
 アーサーはここまで褒められた事がなかったからか、顔から指先に至るまで真っ赤にして、ブランコから立ち上がった。それに合わして揺れたブランコを、菊は慌てて押さえた。
「菊、一緒に薔薇を、薔薇を摘まないか」
 叫ぶようにそう言ったアーサーに、菊はキョトンとするとそれから微笑み、差し出された手に自身の手の平を重ねた。










袖を曲げてあげる菊が書きたかったんです。
次は、日と英で挑戦だっ!!!
07 09 27 くしの実