口内炎がじわりと染み込むように痛んだ。舌を噛むよりは、まぁマシな痛みだが、それは綱吉に自分のビタミンC不足を思わせた。やはり、不規則な生活のせいか。溜息をついて綱吉は目を伏せた。最強アルコバレーノの家庭教師さまさまが夜中に叩き起して仕事などと言うからだ。ボスになりたくなかった理由にはコレも多分入っている。それで文句を言えば家庭教師リボーンから弾丸がとんでくるのだろうが。そして多少の皮肉を浴びせられるだろう。
口内炎を舌で弄びながら綱吉は手元の資料に目を通した。最近は肉弾戦がないだけいい方か。軽く自嘲気味にそう考えて、資料に判を押す。
窓から射す日が七色に反射して頬に当たる。それは蜘蛛の巣のように繊細で、ブラインドを下ろして隠すのには酷くもったいなかった。


さよなら世界の人



黒いスーツに日の暖かさは吸い込まれていく。
「あちぃな」
そう呟くとリボーンはうっとおしそうに太陽を仰いだ。
梅雨時の太陽ほど嫌いだ。湿気を含んだ日光を真っ直ぐとぶつけてくるそれを、リボーンは忌み嫌っていた。この銃が届くなら撃ち落としてやるのに。そう考えながら迷路のように入り組んだ路地を歩く。足もとの小石が微弱な音をたてた。こういう場所は敵に場所を感づかれやすい。
「めんどくせ・・・」
挑発するように発言すれば、それに応えるように銃弾が鋭く地面に突き刺さる。リボーンの耳に微かな舌打ちが聞こえた。
「終わらせてやるよ、せいぜいもがけ」
真っ直ぐに銃口を路地の突き当たりに向けると、リボーンは迷うことなく引き金を引いた。振り返ることなくその場をあとにする。敵の心臓はもう止まっている。遠くで聞こえた、金属の落ちる音でわかった。あれは銃を落とした音だ。リボーンは帽子を深くかぶりなおすと、雲の出てきた空を見上げて帰路についた。さっさと帰って風呂に浸かりたかった。
何より、まだ未熟な教え子に会いたかった。


ひととおり資料や書類を整理し、綱吉は手元のコーヒーを手繰り寄せた。さきほど雲雀が淹れてくれたコーヒーはまだ温かく、風味を失っていなかった。ゆっくりと口をつけて綱吉は窓に向きなおる。雲が目立ち始めた空を残念そうに眺めながらコーヒーを飲む。綱吉にとってはあるようでない贅沢だ。口内に広がる苦みに心地よさを感じながらブラインドを下げる。もったいないと感じていた光はもう隠れてしまっていた。
―――マフィアのボスにだって感傷に浸るときぐらいあるさ、人間なのだから。
「たまには青空を仰がせてほしいよ」
懇願するように空へ語りかけると、雲が大量に移動し、完全に青空を隠した。
「素直じゃない空」
そう呟くと綱吉は窓の外へ憎々しげに舌を出した。
「貴方が大空でしょう」
いつの間に入ってきたのか骸が呆れたように微笑みながら綱吉の髪をまさぐった。あくまでボンゴレ10代目なのだが、そんなこと米粒ほども考えずに自然と手が出る。そんな美しい髪をしていた。さらり、と手のうちから逃げ出していく。
「確かに俺は大空のリングだけど」
「でしょう?」
「でも自然までは操れないよ」
苦笑しながら綱吉は残っていたコーヒーを喉へ流し込んだ。要件を思い出したように骸も手に持っていた包みを差し出した。
「・・・なにこれ」
不思議そうに目を向けた綱吉に、ほとほと呆れたというような視線を向けたあと、骸は包みを机へ置いた。紙のこすれあう音が響く。
「貴方が買ってきてと言ったのでしょう」
「嘘、頼んだっけ」
「頼みましたよ」
「げー、最近物忘れ激しいんだよね、歳とったのかな」
深く溜息をついて、綱吉はマグカップを机の上へ置いた。小気味のよい音が室内へ響く。優雅な動作で包みへ手を伸ばすと、包装紙をしばらく眺めて思い出したように両手を打った。
「ああ、これか!思い出した」
それは綱吉が贔屓している店の、一番の売れ筋を誇っている菓子だった。一見、ただのチョコレートのようだが、繊細な造りと、とろけるような味わいが綱吉のお気に入りだった。この菓子の欠点は甘ったるいところなのだが、そんなこと無類の甘いモノ好きの綱吉には関係ない。雲雀などは一口勧められて口内へ押し込んだものの、普段寄せている眉をさらに寄せ、近くにあるコーヒーを一気に飲み干した。それ以来、二度と食べないと言い張っている。
もちろん、綱吉ももうあまり勧めないのだが。
その包み、誰にあげるんですか。と骸が尋ねると、綱吉は慌てたように包みを抱きしめた。
「なんで、あげるって分かったんだよ」
「貴方がその包みを頂いて、すぐに破って食べないはずがないでしょう」
笑みを含めながら骸が言うと、綱吉はさらに慌てた。
「え、俺ってそんなすぐ食べるっけ」
「ええ、そりゃもう物凄い速さで包みを破って食べますよ」
「ボスとしての風格まったく無いね、俺」
綱吉が落ち込んだように包みをまた机の上へ戻すのと、扉が開け放たれるのとが同時だった。風圧で綱吉と骸の髪が舞い上がる。乱暴な開け方をするのは、雲雀と、あと一人しかいない。
「おかえり、リボーン」
綱吉は微笑みながら言い、扉の向こう側へ立っている自分の家庭教師に手を振った。リボーンが振り返すわけもなく、革靴の音を響かせながら教え子のもとへ歩き出す。その間に骸は軽く一礼すると、部屋を出て行った。遠ざかっていく骸の足音を全身で捕えながら綱吉は残っていないコーヒーのマグカップへ口をつけた。傾けるが一滴も流れてこない。リボーンに見透かされるのがくやしいので、微かに喉を動かした。
「ないもん飲むんじゃねーぞ」
「ちぇっ、バレてたんだ」
「そんなもんすぐ分かる」
皮肉を漏らそうと口を開きかけたリボーンの顔へ、綱吉は目の前の包みを投げた。皮肉を食い止めるためが理由の一つにあるが、もっと大きい理由はあった。
「リボーンは今から一週間、仕事休みな」
「なに言ってんだてめぇ、明日の仕事は俺が中心じゃねぇか」
「俺が代わりに行くから大丈夫、甘いものでも食べて休んどけ」
大丈夫じゃねぇだろう、と言いかけてリボーンは口をつぐんだ。果たして目の前にいる青年は弱いのだろうか。実践では躊躇いがあり、人よりは強いものの、その躊躇いの一つが命取りになる。
―――ひとまず、今はこいつの言うことも聞くか。
そう考えてりボーンは微笑んだ。






07 07 30 きなこ