君 は 悲 し い 顔 を し た |
(淋しいもんだよなぁ、) 鏡で、眼鏡をかけた己の顔を見る度に、綱吉はそう思った。それでも、目はもう良くならない。 |
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夏雨 |
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高校生になってから、綱吉は眼鏡をかけ始めた。細身の銀フレームは、あまり似合っていなかったが、綱吉の気には入った。 「だから、あれ程ゲームは程々にしなさいって言ったでしょう、」 眼鏡をかけ始めた当初奈々に言われたとおり、小・中と通してのゲーム三昧が良くなかったのだ、と今なら分かる。今は、それに懲りて、一日に一時間で止めている。 眼鏡を通しての世界は鮮明だったが、眼鏡を外せば瞬く間にぼやけた。物の輪郭も分からないし、距離感も分からない。大雑把な色ぐらいは分かるが、遠くのものなんて、見えた例がない。中学生の時に見えていた世界は、もうなかった。 (淋しいもんだよなぁ、) 鏡で、眼鏡をかけた己の顔を見る度に、綱吉はそう思った。それでも、目はもう良くならない。 外では蝉が沸いている。開け放した窓からは、熱を伴った生ぬるい風が、時折吹き込んでいた。夏の日差しは強く、ジメジメとした暑さもあるので、綱吉は苦手としている。これからそんな中に出て行かなければいかないのか。そう考えて、綱吉は小さく嘆息を漏らした。 高校生になり、ほんの自由を与えられた彼は、郊外に出て一人暮らしを始めた。安い学生アパートは、近年で見られないような年代を感じさせるものだったが、それが好きで住む事に決めた。そこから歩いて十分もすれば、綱吉が現在通っている高校が見えてくる。高校も、並盛にあるものではない。線路の裏路地にあるため、夜中に夜行列車の音がするのは億劫だったが、それさえ我慢すれば、立地条件は最高に良かった。 勿論、家族だけではなく、友人・知人らは反対した。綱吉が一人暮らしなんて、どんな危険があるか分かったもんじゃない。彼らは、異口同音で言ったが、綱吉は眉を困ったように下げて笑いながら、首を振るばかりだった。綱吉だって不安だった。しかし、いつまでも子供気分のまま、周りの友人や家族に頼りっきりではいけないのだ。 一騒動あった中で、かの家庭教師だけが、最初から頷いてくれた。彼の同意は、非常に心強いものである。 「ツナ、お前も一人で社会勉強でもするんだな」 うんうんと二回頷くと、一回でいい、と頭を叩かれたのも、まだ記憶に新しい。 家に人がいないという環境は、綱吉にとって耐え難いものだ。中学生までは、人で活気あふれる温かい家に帰っていたが、もう誰もいない。だが、アパートの大家は、綱吉を迎える度に、「おかえり」と、声をかけてくれた。照れながら返事を返す時に、綱吉はおばあちゃんってこんな感じなんだろうな、と思った。 基本的に自炊だが、綱吉はよく隣人のおこぼれに預かる。隣の女学生―大学生なのだそうだ―が、綱吉を気にかけてくれ、しょっちゅう晩御飯を届けてくれた。少し大目のそれは、次の朝まで持つように、との彼女の優しさだった。ハルにバレたら、叱られるな。いつも、綱吉は苦笑した。 学校から出ると、陽光が容赦なく綱吉を照らす。長い黒のスラックスと、白いカッターシャツが、鬱陶しい。だが、部活生でないとよっぽどの事がない限り、登下校は制服とされていた為、体育服で帰ることもできない。校庭は、汗の匂いと白土の匂いで満ちている。 少し木が茂りすぎたアパートへの裏路地を、ひぃひぃ言いながら上っていく途中、見知った顔に出会った。野球のユニフォームをまとった彼は、綱吉より一段と大きくなっている。白いユニフォームに、泥が混じっているのを感慨深く眺めながら、ゆっくりと歩みを止めて、綱吉は彼の名を呼んだ。 「・・・山本、」 「おっすツナ」 相変わらず、笑顔が眩しい山本の隣に立ち、綱吉はまた歩き出した。さり気なく差し出された手に、自分の鞄を預ける際、彼の手にリングが光ったのを見た。 「獄寺、元気にしてんのか」 「ん、そうみたい。俺のところに、一週間に一回は手紙が来てる」 山本が、イタリアに飛んだ友人の話を切り出すのは、何となく予想していた。中学時代、あれだけ仲が悪かったが、それでも獄寺の事は気になるらしい。勿論、彼が飛んだイタリアにも、興味があっての事だろう。しかし、仲が悪かった筈の山本が、獄寺にまだ興味がある事を知って、綱吉は嬉しくなった。 「また、度が強くなった?」 急に山本が綱吉の目を覗き込み、どぎまぎしながら綱吉はううんと返した。 アパートに入る時、いつもの大家はいなかった。ただ、小さな共同の玄関口に面した小窓が、僅かに開いていた。 部屋に入ると、むっと熱気が押し寄せた。後ろで小さく暑い、と山本がぼやくのを聞いて、部屋に一つだけしかない窓を、慌てて開ける。二階にあるおかげか、少しだけ涼しい風が中に入ってきた。 「適当に座ってて」 山本にそう言い残すと、綱吉は続けてトイレの高い位置にある小窓を開け、それから麦茶とコップを取り出した。コップに数個氷を入れると、麦茶を注ぎ、小さなちゃぶ台に置く。先にちゃぶ台に座っていた山本は、キョロキョロと部屋を見回した後、いただきます、と言ってから麦茶を飲んだ。 「やっぱり、ここ狭いなぁ。ツナは窮屈じゃねぇの?」 「うん。だって俺そんな大きくないし。一人暮らしにはこれぐらいで十分だし。家賃安いし、」 いい所ばかりを上げながら、指を折っていく。山本が苦笑しながら止めた。 「や、もう分かったから」 「お風呂だって、近くの銭湯で済むんだから、」 まだ続けたそうに指を折る綱吉の口を、山本は手で押さえた。不満そうに、綱吉は口を抑えられたまま、山本を見上げる。山本が口から手を離すと、気まずそうに綱吉は麦茶に口をつけた。 そのまま二人が黙り込むと、窓から大きく蝉の声が聞こえる。近くに藪があるからなのか、夏場になると蝉の声が五月蝿く響く。夏休みになれば、近所の小学生が昆虫採集に来るほど、昆虫の宝庫だった。今年移ったばかりの綱吉は、まだその笑い声を耳にしたことはなかった。 綱吉がぼんやりとその藪を見ていると、沈黙の場は山本のあのさ、という声によって破られた。 「俺、告白されたんだよね、」 どこかに飛んでいた思考が、急に引き戻された。目を真ん丸くして驚く綱吉に、山本は俯きながらポソリと零す。 「川原に、」 「川原さんって・・・、確か、中学から一緒だったよね。京子ちゃんがいなければ、一番の美人ってくらい美人な、」 うろたえながら綱吉が返すと、山本は浅く頷いた。高校でも、と彼は続ける。 「高校でもさ、川原と一緒だったんだ。アイツさ、今野球部のマネやってんの。そしたら昨日、部活後に呼び止められてさ。山本君付き合ってー!って」 その時、綱吉は奇妙な喪失感に見舞われた。思わず眼鏡に手を伸ばし、カッターシャツの裾で眼鏡のレンズを拭く。それでも、ギリギリと締め付けられるような胸の痛みは、何もなくならない。僅かに震える手で眼鏡をかけ直し、綱吉は無理やりに笑みを浮かべた。 「へ、え。良かった、じゃん。山本、前彼女欲しいって言ってたし、この際付き合ってみれば、」 山本は、ゆっくりと顔を上げた。どこか悲しげな顔だった。切羽詰ったような表情で、綱吉の瞳を見た後、戸惑いながら視線を下方で泳がせる。綱吉は、そんな顔が見たくなくて、また眼鏡を外し、シャツの裾でレンズを拭いた。 そうしてまた沈黙の時間が訪れると、山本が俄かに立ち上がった。仄かに暗い部屋では、下からは山本の顔が見えない。綱吉はその状態で、静かに山本を見上げた。 「俺、帰るわ」 「・・・俺も、行く」 「遠いぞ?」 「行くんだってば、」 綱吉も立ち上がり、手早く窓を閉めると鍵を握った。トイレの窓は、もう閉めない。 カンカン、と鳴らしながら鉄製の錆びた階段を下りて、小さな玄関の小窓を見てみたが、やはり僅かに開いたままだった。 外に出て、綱吉は着替えれば良かった、と思った。まだスラックスが暑い。隣の山本に目を向けると、やはり彼も同じように暑いらしく、ユニフォームの襟で扇いでいる。また、胸が苦しくなって、苦し紛れに第二ボタンを外した。 不意に、雨が降り出した。雨雲は薄いが、大粒の雨が叩きつけている。二人は慌てて民家の軒下に入った。 「・・・っちゃー。濡れた。何だこの雨、」 山本が頭をタオルで拭きながら呟くと、綱吉は小さく頭を縦に振った。ぼーっと電車が通っていく様子を見ていると、山本から思案気な声がかけられる。 「・・・ツナ?」 ハッと顔を上げて笑って見せると、山本も苦笑した。それから、彼が自分の頭を拭いたタオルで、綱吉の頭を乱雑に混ぜた。その下で、綱吉は眉根を寄せる。 この季節に降る夏雨は、一気に振った後また止む。今回もそれ同様に、五分もすれば止んだ。軒から滴る雫を鬱々とした気分で眺めながら、軒より外から出された、山本の逞しい手を握った。彼の手は、バットの振りすぎなのかマメが多かった。レンズに水滴がつき、ぼやけた向こうの山本は、もう大人の背中だ。 ねぇ、と綱吉が声をかけると、山本は、前を向いたまま、んん、と返す。 「山本は、川原さんと、付き合う、の?」 少し歩調を緩めると、またすぐに歩き出した。先ほどより心なしか早めだ。その山本の顔が見たくなくて、綱吉は俯き続けた。 「ツナはどうして欲しい?」 「・・・狡いな。俺に任せちゃうのか」 綱吉が苦笑しても、山本は真顔のままである。綱吉は怖くなって山本の手を離した。 夏雨がもたらした空気は、とても静かだ。あれ程五月蝿く鳴いていた蝉も、今は息を潜め、また鳴き喚く時を待っている。もう二・三分もすれば、また五月蝿いに違いない。先程まで暑かったコンクリートは、雨に冷やされ、風は涼を孕んでいた。 だが、綱吉は暑くて堪らない。ダラダラと汗が流れ、カッターシャツを濡らしていく。電車に飛び乗って逃げようか。綱吉は、無意識に腰を引いた。 蝉がまた勢いづき、ゆっくりと大きな声で鳴き始める頃、山本が振り返った。レンズ越しに見える山本の顔は、憐憫と悲哀の情に満ちている。綱吉は握り締めた拳の、平の皴を探るように動かしながら、小さく問うた。 「・・・何、」 「ツナ、お前さぁ、」 山本は唇を舐めた後、黙り込んだ。その後口だけを小さく動かす。可哀想な奴。綱吉は怪訝な顔をして、口を開いて、また閉じた。再び静寂が訪れると、蝉が一層鳴き喚いているように聞こえる。二人は黙りこくったまま、対峙した。蝉の声は大きく頭に響き、ぐぅらぐぅらと綱吉の頭を揺らす。身体だけ置いて、どこかへ流れていくのだろうか。綱吉はそう考えてしゃがみこんだ。汗が、こめかみから一筋流れる。 突然の吐き気に襲われて、綱吉は口を押さえた。道路の脇の側溝に走り、そこに膝をつく。おぇっという呻き声と共に、朝食べたものが出てきた。少しもすると、胃液しか吐き出せなくなり、酸の味に尚更吐き気を覚える。 山本は、肩で大きく息をしている綱吉の傍へ、ゆっくり歩いていくと、しゃがみ綱吉の背を摩った。 「大丈夫か?」 「う、ん」 はーっはーっと大きく息をする綱吉を見て、顔の表情の一切を消すと、立ち上がる。綱吉は見上げて、小さく首を捻った。 「俺さ、」 逆光の為、山本の顔は見えない。それが、容易に綱吉の不安を煽った。 「やっぱ、川原と付き合うよ、」 「え?、」 瞬きをすると、目じりに溜まっていた涙が零れた。山本の後ろには夏雨なども知らない、青空が広がるばかりである。 |