水が滴る音がする。ぴたん、ぴたん、と身体が竦み上がる様な、冷えた音。 カイトはハッ、と飛び起き、そのままぼうっと静止した。風も無い、何も無い、音もしない真っ白な空間に、カイトはポツンと一人で座っている。先程まで聞こえていた、カイトを覚醒させたはずの水音すらしない。 ぼやけた頭でぐるっと首を回し、周りを見回して、下を見た。カイトは、身に覚えの無い、真っ白な縦長の箱に入っている。箱の淵に手を滑らせると、ひんやりとした感覚が伝わってきた。瞼が持ち上がらない。 「お兄ちゃん、起きた?」 カイトはとろけそうな眼を見開かせ、声がした方向に顔を向けた。唐突に聞こえた声は背後からで、そこにいたのはミクだ。可愛い可愛い、妹のミク。 少なからず不安を覚えていたカイトは、ほっとしたように顔を緩ませ、ミク、と安心した声色で彼女の名前を呼んだ。彼女はニッコリと笑って、しゃがむ。白い足や腕、彼女の顔は、すっかり周りと同化しきっていて、カイトは、彼女が笑んでいたというのに戦慄を覚えた。ミクが、怖い。 「やっと。やっとね、お兄ちゃん」 「ミク、ミク、ここは一体何処なんだ。俺は一体何故こんな箱に、」 そっ、と唇に指を押し当てられた。柔らかい。その感触に彼女を見やると、目を細めてカイトを見ている。うっとりしたような、優しい、恍惚とした笑顔を浮かべるミクを、カイトは知らなかった。初めて見るミクの顔に、カイトはたじろぐ。 顔を硬くしたカイトとは正反対に、ミクはニッコリと笑んだまま立ち上がると、周りを見回した。彼女の長く、細い髪が揺れる。カイトはぼうっとそれを眼で追いかけた。頭が白くなって、飽和状態となって、ぼんやりとする。視界が眩む。 良い所でしょう、とミクの声がして、カイトは焦点を合わせた。何時の間にか座り込んだミクが、カイトの目前で満面の笑みを浮かべている。髪先が触れるか触れないかという際まで来たミクを、カイトは追い払おうともせず、彼女の眼を見つめた。眼球に映る自身の姿が見える。 「真っ白で、なぁんも無いの。ここに在るのは、あたし達だけなんだよ、お兄ちゃん。本当に、良い所」 「俺達だけの処って事?」 「そう!あたしと、お兄ちゃんだけ、二人っきりの場所」 ミクはカイトの頬に手を滑らせ、その後ゆっくりと舐めた。ぼんやりとしていた頭の霧が急速に晴れ、カイトは眼を大きく見開いた。逃げようと腰を引くが、逃げるところなど何処にも無い。ある筈も無かった。ここは、カイトとミクだけがいられる、全く浮世とは別の場所だ。どこに行っても、ミクに追いつかれる。 怯えたようなカイトを見て、ミクは抱き締めた。柔らかな胸の感触がして、またカイトはぼうっとしてしまう。催眠術にでもかかった様に、いくら頭を振ってもはっきりとしない。 「おにいちゃん、」 甘く舌足らずの声に、カイトはゆっくりと眼を閉じた。世界が歪んでいる。何も無い世界なのに、歪んでいる。 気付いてみれば、カイトはまた箱へ横たわっていた。彼を見下ろす、ミクの顔が真上に見える。彼女は花を持って、カイトの髪に差した。碧い髪の上に、紅の花が咲く。上から花が降り注いでくる。何処から降るのか、何故突然振り出したのか、そのような考えにも結びつかず、カイトは目を細めたままミクの顔を見上げた。胸の上で組んだ手が、小刻みに震える。 頬に、また手を滑らすミクは、髪がカイトの身体に乗っているのも気にしていないようだった。何度も何度も、慈しむように、カイトの頬を撫でる。ミク、とカイトが声をかけると、なぁに、と手を止める事無く返答した。 「何でも無い」 「ふふっ。変なの」 ミクは髪を耳に掛け、頬から唇まで手を滑らせた。 「お兄ちゃん。今ね、お兄ちゃんのお葬式の最中なんだよ。ここはね、お葬式場」 「俺の、葬式場」 お兄ちゃんにはね、白が似合うんだもの。何色も知らない、何色を混ぜ合わせても作れない、真っ白。 ミクはにっこりと微笑みカイトの唇を噛んだ。走る鈍痛にカイトの眉が顰められたが、それ以外の抵抗など何もしない。光の灯らない瞳を覗き込んで、ミクは自身の唇についたカイトの血を舐めた。何の味もしなかった。指をカイトの唇に運び、その指についた血をカイトの頬に塗る。 「ほおべに。お兄ちゃん、真っ白だから良く似合うね。妬けちゃう」 「ミク、だって。くちびるが、とっても、紅い」 カイトが胡乱に微笑んだ。ありがとう、とミクは満面の笑みを浮かべて、カイトの頬にかかった髪を払った。花がちらり、と動く。 上から降っていた花は何時しか止み、カイトの箱には花がいっぱいになっていた。カイトの上にも、ミクの上にも、花が積もっている。周りが全くの白の中、そこだけが原色が踊った。 さぁ、とミクは立ち上がった。カイトは薄く眼を見開いたまま、光の無い瞳でミクを見ている。見上げるミクの顔は、霞がかかって見えもしない。 「お兄ちゃん、お兄ちゃんとはお別れです。だって、これ、お兄ちゃんのお葬式なんです。だから、」 バイバイ。 ミクはその時一番優しい笑みを浮かべた。それだけは、カイトにもはっきりと見える。ずっと見てきた中で、一番優しい笑みだった。 次の瞬間、視界は暗く閉ざされた。 何も、何も無かった。白に閉ざされた其処には、誰も、何も、無かった。 |