幸福の理論
楓の試験期間も終わりを向かえ、久しぶりの歌の練習も終わり、KAITOが休憩がてらにアイスを食べていた時、マスターである楓が話し掛けてきた。優しげな声が上から降って来、KAITOは素早く顔を上げた。 「そういえばKAITO、誕生日なんだって?」 KAITOは口に含んでいた棒アイスを少し齧って離し、僅かに首を傾げる。KAITOのトレードマークとも言える青い髪が、サラサラと流れ、楓はそれを黙って眺めた。口から出していたアイスを再び口に入れてから、KAITOはこっくりと頷く。 「あ、やっぱりそうなんだ。バレンタインが誕生日なんて、何かいいね」 「そうですか?」 人間の情緒というものが、いまいち理解できないKAITOには、特に思うところがない。そうだよ、と笑顔で頷く楓に申し訳なく思いながら、KAITOは残りのアイスを口に押し込んだ。 日本でいうバレンタインは、好きな男性に女性がチョコレートを渡す日の事だ。若者の間では、最近でこそ女子間での交換が行われているが、女性から男性へ、という風習は、未だ根強い。楓も先日楽しそうに何かを作っていたため、KAITOは漸くその事を思い出したのだ。おそらく彼女の兄に渡すものだろうと思うが、幾つか作っていたので、他に渡す人があるのだろう。 「ちゃんと、KAITOにプレゼント用意したんだよー」 KAITOが彼女のチョコレートの渡し主を考えていた間、楓も何かを話し続けていたらしい。唐突にその言葉が聞こえ、へ、と間の抜けた声を上げた。プレゼントとは、初耳だ。 「ちょっと待っててよー、今探すから・・・」 どのファイルだっけ、と首を捻りながらフォルダ内を粗探しし、暫くしてからあった、と歓声を上げた。間もおかず、KAITOの元に一まとめにされた楽譜が落ちてくる。ゆっくりと下降してくるそれを、KAITOは優しく掴み、画面外のマスターの顔を見上げた。彼女は、満面の笑みでKAITOを見ている。 「誕生日おめでと。それ、あたしからのプレゼント」 そんなに長くはないんだけどね、と彼女は苦笑するが、KAITOは勢いよく頭を振った。自分のマスターから、自分の為の曲を貰えたのだから、文句がある筈もなく、また文句を言える訳もなく、文句など言う気にもなれなかった。純粋に嬉しい。 KAITOは急くように楽譜を捲り、楓にそんなに急がなくても、と笑われた。だが、気持ちが急く。 題名に「KAITOへ」と銘打たれたその曲は、確かにさほど長い物ではない。だが、KAITOは嬉しさに頬を上気させて、口ずさんでみた。時間がなかったのか、拙いメロディではあるが、優しい音色にKAITOは泣きそうになる。 小さな声で歌うKAITOに、楓は照れくさそうに声を掛けた。 「本当ごめんね。もっと前に知ってたら、まだいいのが作れたと思うんだけど。もしかしたら、そのうち書き直すかも」 苦々しげに零す楓に、KAITOは大きく首を振った。これでも、十分だ。 「いいえ、例えどんな曲だろうと、とっても嬉しいです。ありがとうございます」 二、三回瞬きをすると、涙が転がった。楓は微笑んで、画面に指を伸ばす。 「泣くほど嬉しかった?そんな風に言ってもらえると、あたしも作った甲斐があったなぁ」 KAITOは再び顔を赤くして、袖で涙を拭った。子供のようで、恥ずかしい。しかし、不思議と嫌な感覚では無かった。 KAITOたちボーカロイドにとって、誕生日などあってないようなものだ。彼らの声帯も肉体も老いる事を知らず、ただ版型が古くなってゆくだけに過ぎない。だから、誕生日が無くとも良いと思う。しかし、このような素晴らしいプレゼントが貰えるなら、幾らでも来て欲しいものだ、とKAITOはこっそりと笑んだ。 一人幸せを噛み締めていると、それからね、という楓の声が聞こえ、楽譜から目を上げた。黒い大きな瞳と、視線が絡まる。 「今のは誕生日プレゼントだけど、ちゃんとバレンタインのも用意してるんだ」 「え、これだけじゃなくて・・・ですか?」 「そそ。ふふふっ、KAITO、喜ぶよ、絶対」 彼女は悪戯っぽく笑って、ちょっと待ってて、とキッチンの方へ行ってしまった。KAITOはもしかしてあのチョコレートだろうか、と彼女の背を視線で追いかけ、再び彼女が戻ってくると、その手の中にある物を見つけ目を見開いた。思わず、画面に両手をくっ付ける。楓はケラケラと笑いながら、再びPCの前に座った。 「ほぉらね、やっぱり。めちゃくちゃ喜んだ」 「マスター、それハーゲンダッツじゃ・・・」 「ふっふっふ、そうだよー。しかもチョコレート!」 さっきもアイス食べてたから、お腹が心配だけどさ、と楓は苦笑する。 楓の手の中から見えるパッケージを見るだけで、くらりと眩暈がする。KAITOはふらつきながら、画面の外へ手を伸ばした。水の中に手を入れた時のような、奇妙な感覚が肘から先に触れる。その手に、楓はアイスカップとプラスチックのスプーンを渡した。KAITOは腕を引き、PC内へとデータ化されたアイスを抱きしめた。ヒヤリと冷えた感触が心地よい。ありがとうございます、と繰り返し頭を下げると、早く食べなよ、と笑って返された。 KAITOは蓋を開けると、さっそくスプーンを差し込んだ。スプーンの上にアイスを乗せて、口に運ぶ。あまりの至福に、はぁ、と溜息をついてしまった。 「幸せそうだなぁ。本当、買ってよかった」 楓が明るく笑って、首をかしげた。その仕草が、良く似合っている。 KAITOにとって必要なのは、歌は勿論アイスもだが、それより何よりマスターの楓なのだ、とKAITOはアイスを口内で溶かしながら思った。楓さえいればきっと、KAITOは幸せでいられるのだろう。 |