Boy meets... この大学の敷地は広い。 一つの街丸々大学関係の建物なのだから、当たり前といえば当たり前だが。 狭い、レンガ造りの建物に囲まれた路地を歩きながら、菊は霞がかかったような空を見上げた。 「・・・迷いました」 どうしてこうも似たような建物ばかりなのか。 というか、見慣れぬ建物が多すぎて、先ほど通った道なのかどうか分からないだけなのだけれど。 だいたい、どこまでが大学でどこからが街なのかさえ分からないのだから、困ったものである。 菊は、ドミトリーまで案内しようと言ってくれた事務員の好意を断ったことを、しみじみと後悔していた。 「まぁ、仕方ありませんね」 そう母国の言葉で呟いて、ショルダーバックの位置を直し、再び人の行きかう大通りをまたいで歩き出す。 この街は、菊の母国の多くの都市と違って、意識的に統一された景観を維持していた。 京都や、小京都と呼ばれる、古い街並みを残した都市を好む菊にとって、趣は異なっても、重厚な年月を重ねてきた景色は興味深いもので。 息をするより自然と、いつの間にか、菊の瞳は資料として渡された写真の建物を探すより、ただ周りを見回すためだけに使われるようになっていった。 やがて人通りが絶え始め、菊がそれに気付いたときには、みっしりと蔦の絡んだ緑の壁が道の左右に続いていた。 前後を見回してみても、いつの間にか立ち込めた霧の所為で、自分の立つ石畳の道と煉瓦に絡んだ緑しか視界に入ってこない。 先ほどまでは確かに聞こえていた、車や人が行きかう街の喧騒が絶え、しっとりとした密度の濃い静けさが辺りを覆っている。 「・・・えぇっと」 明らかに尋常でない、ということは分かりきっていたが、だからと言ってどうすることができるだろう。 とりあえず、元来た道を戻るべきなのだろうと思って踵を返したところで、菊の耳は静けさの中にささやかな水音を捉えた。 ぴたりと、足が止まる。 濃密な植物の気配に混じって、野生の動物よりも自然に溶け込まない、何やら不思議な気配が霧の流れに乗って、菊の皮膚を微かに撫でていった。 人が、いる。 直感的にそう思って、菊は緑の壁に沿って足早に進んだ。 やがて緑の壁が終わりを迎えるのと同時に、砂色をした石畳が、炭酸カルシウムの比率の高い石灰岩の色になり、明らかに先ほどまでの景色とは違う光景が広がっていた。 一言で言うなら、そこは森であった。 けれど、緑の壁の道を包んでいた濃密な湿気のある空気は失せて、からっとした乾いた風が、緩やかに樹高の比較的低い木々の間を流れている。 そして、菊の足元にあるものと同じ白い石畳が、飛び石のように楕円形の石畳が転々と森の奥へと続いていた。 どこから日が差しているのかは知れないが、それ程暗くは無いのに、緑の生い茂った森の奥は菊の立つ場所からはよく見えない。 「・・・」 元来、菊はそれ程あからさまに好奇心が強いほうではない。 今、自分がどのような状況に置かれているのかさえ分からない状態で、好奇心のままに動けるほどの活発性も無い。 だが、不思議なときに、この時の菊にとってはこのまま足を進めることがごく自然なことに思えた。 素っ気無い、どこにでもある革靴が、白い石灰岩の飛び石を辿っていく。 周りの木々をよく見てみると、常緑樹や落葉樹が入り混じり、オリーブやオレンジの木がポツンポツンと生えていた。 「・・・地中海性気候ですかね」 もう疾うに摩耗してしまった高校時代の知識を引っ張り出して、ケッペンだったかワッペンだったか、なにやらそう言った名前の気候区分を思い出して、菊の困惑はさらに深まった。 彼が留学先に選んだ場所は、確か地中海に面してはいなかっただろうと、霞がかかった記憶をひっくり返す。 そうこうしているうちに、ぽっかりと木々の姿が消えた草原にたどり着いた。 にゃあ。 草原の真ん中に、白い楕円の石畳があって、そこに真っ白な猫がちんまりと座っている。 金色の瞳が菊の姿を認めて、きょとんと首を傾げた。 「猫、ですね」 冗談みたいに唐突に出現した草原と猫に、菊の唇は当たり前のことを紡ぐだけの期間に成り下がる。 けれど、すぐにその唇は小さく引き攣った悲鳴を上げるために使用された。 「珍しい」 背後から不意に上がった、のんびりとしたバリトンによって。 「はぃ!?」 存外近くから声をかけられて、完全に油断していた菊は全身の毛を逆立てて振り返る。 そこには、逞しい腕に三毛猫を抱いた、大地の色をした緩いくせ毛の彫りの深い青年が、シャツにジーンズというラフな格好で立っていた。 見上げる高さにある緑褐色の瞳が、じっと菊を不思議そうに見つめている。 「えっと、あの・・・」 「ネコ」 「はい?」 「好き?」 ん、と差し出された三毛猫と、差し出し主を見比べながら、菊は反射的に腕を出して、柔らかく暖かい毛玉を受け取った。 三毛猫は、しばらくきょとんとした様子で菊のことを見ていたが、やがて小さく鳴いて菊の胸元に頭を摺り寄せる。 なぁん。 その甘えた声を聞いて、大地色の髪の青年はのんびりと笑った。 「好きなんだ」 「はぁ、嫌いではありませんが・・・」 「そう」 「ま、待ってください!」 そのまま満足そうに頷いて去ろうとした青年を、菊は慌てて引き止めた。 ぎゅっとシャツの裾を引っ張られて、青年の表情が少しだけきょとんとしたものに変わる。 「何?」 「いえ、あの、なんと言ったらいいのか・・・」 「・・・」 「こ、ここはどこなんですか?貴方は一体・・・」 「ん・・・ここはイギリスだし、俺は大学生・・・」 「・・・えぇ!?」 驚きのあまり、滅多に上げない大声を上げて、菊は確認するように周囲を見回してから再び困惑した様子の青年を見上げる。 言われて見れば、先ほど講堂などですれ違った同じ大学の生徒達と、見た目の年齢はそう違わないような気もした。 確かに、彼が大学内を歩き回っていてもなんら不思議は無い。 「大学生、なんですか」 「うん」 これが、出会いだった。 最近の菊の日課は、講義終了後に“森”へ行くことだった。 大学では、それなりに友人もできたし、出される課題も容赦が無いので、何かと忙しい日々を送ってはいたが、それでもその日課を途絶えさせることは無かった。 今日も今日とて、菊の歩みは心なしか軽やかに“森”へと向かう。 あそこへとたどり着くためには、何かに集中して、無心に歩き続けなければいけない。 哲学を心から愛している“森”の共有者は、簡単にそれができてしまうが、菊にとっては中々難しいことで、いつも教科書を読みふけりながら通りを歩くという手段を講じていた。 おかげで、最近は学内でも勤勉な学生として妙な目立ち方をしている。 ふっと、周りの気配が変わったことを、視覚よりも先に頬に触れた風が告げた。 読んでいた本から顔を上げれば、周りは霧の白と、煉瓦の壁に這った蔦の緑ばかり。 今日も無事にたどり着けたことに安堵して、菊は石畳を歩くペースを上げる。 やがて壁が途切れたその先に、果たしていつもの“森”があって。 「こんにちは」 「コンニチハ」 “森”の奥の広場に腹這いになって、広い背中にネコを乗せた青年が、菊の母国の言葉で挨拶をしながら読んでいた本から顔を上げた。 柔らかな光の下のその光景が、微笑ましいやら和ましいやらで、自然と笑みが浮かぶ。 そのまま、さくさくと草原へ足を踏み入れて、腹這っている青年の横に座り込んだ。 なぁん。 すると、青年の背中で心地良さそうにまどろんでいた三毛猫が、動く気配に目を覚まして、足を伸ばして座っている菊のほうへ飛び移ってきた。 それを受け止めて抱き上げれば、背中の重りがなくなった青年が、ごく自然に菊の伸ばした太股に大地色の頭を乗せてきて。 その態勢で、何も言わず再び本を読み始めた。 菊のほうも、それを特に気に留めず腕の中で甘えてくる三毛猫を存分に構っていて、“森”の広場には、緩やかな風の音と、ページを捲る音と、甘えたような猫の鳴き声だけがあった。 この場所が何であるのか、それは菊は元より、先客である青年も知らないという。 ただ、ここから帰ろうと思えばいつでも帰れる場所で、さまざまな気候の植生が入り乱れている場所であるということだけが事実だった。 地中海性気候から西岸大洋性気候になったり、温暖湿潤気候になったり、あらゆる植物が気候や高度に関係なく青々と茂っている。 生物学を専攻しているという青年は、そこが気に入ってこの“森”に居着いているのだそうだ。 菊と青年は、時折学内でも顔を合わせるが、その時の青年は菊に対して赤の他人のように素知らぬ振りをしていた。 菊が友人から話を聞いたところによると、今菊の膝の上で黙々と本の世界に沈み込んでいる彼は、大学でも指折りの逸材らしい。 すでに何本か論文が教授陣に認められ、将来は大学の研究室に引き抜かれることが決まっているらしい。 ただ、とてもマイペースで掴みどころの無い性格や、その仰々しい知名度のためか、ほとんど友人はいないのだとか。 にゃあ。 不意に背後から、少しだけお澄ましした鳴き声がして、ゆるゆると背中に暖かい体が摺り寄せられるのを感じた。 首だけそちらに向ければ、先ほどまで姿を消していた白猫が、ぴったりと菊の背中に寄り添っている。 同じように白猫の存在に気付いたらしい青年が、片手で本を読んだまま、大きな金色の瞳で菊を見上げていた白猫の首の後ろに、大きな手を伸ばして自分の胸元へと運ぶ。 にゃあん。 その、若干乱暴な所作がお気に召さなかったらしい白猫が、不平そうな声を上げたが、青年に黙殺されると渋々といった態で、ゆっくりと上下する分厚い胸の上で丸くなった。 腕の中で眠ってしまった三毛猫も、白猫の横に乗せてしまって、菊はその様子に思わず笑ってしまう。 それが珍しく耳に入ったらしく、本の世界に没頭していた青年が少しだけ菊のほうへと視線を向けた。 「?」 目だけで問われて、微笑みながら首を振ることで返す。 すると、さらに青年の眉が訝しげに寄った。 「どうか、した?」 「いいえ、ただ、微笑ましいなと思って」 目を覚ましたらしい三毛猫と白猫も、青年と同じように不思議そうに菊を見上げている。 「ふぅん・・・」 菊の答えに、納得したようなしないような表情になりながらも、青年は手にした本をパタンと閉じて、ゆっくりと目を閉じた。 ふわりと吹いた緩やかな風が、大地の色をした緩く波打つ髪をねぶる。 「撫でてもいいですか?」 「うん」 ふわふわと揺れる髪を指に絡めて、菊は青年の頭をゆっくりと撫で始めた。 それは、先ほど三毛猫にしたのと同じ手つきではあったけれど、青年は心地良さそうに形の良い口元を緩める。 「今は、どんな本を読まれているんですか」 「フィンチの嘴についての論文。ガラパゴス諸島の話」 「フィンチの嘴、ですか」 「うん。聞きたい?」 「・・・今は、遠慮します」 「そう」 再び、心地の良い沈黙が降りる。 その沈黙が、菊は嫌いではなかった。 にゃあ。 なぁん。 青年の胸の上で、猫たちが甘えるように互いを毛づくろい始めた。 もそもそと小さな体が動くたびに、気になるのか、青年の緑褐色の瞳が薄っすらと開いてそちらへ向けられる。 「仲がいいですね」 「兄弟だから」 「えぇ」 何故か、その仲睦まじい様子を眺める青年が寂しそうに見えて、菊は青年を撫でる手つきを一層優しいものへと変えた。 「・・・」 それを受けて、緑褐色の瞳がゆるゆると菊を見上げる。 「暖かい」 「そうですか」 「うん」 無邪気に笑ったその表情が、どうしてだか愛しくて、菊の顔にも慈しみに満ちた微笑が浮かぶ。 だから、唐突に口付けられても、嫌悪感は浮かばなかった。 それは恋愛感情よりも、子が親に向ける、親が子に向けるような、そんな純粋でひたむきな好意の方が、口付けに込められていたからかもしれない。 にゃあん。 なぁん。 唐突に青年の胸元から落とされた猫たちの不満の声が、草原の風に乗って森の奥へと溶け消えた。 fin. くしさま、本当に今更になってしまいましたが、1万Hitおめでとうございます!! そして、リクエストしていただきました「ほのぼの希日」が、なにやら色々な意味でアイタタなことになってしまいまして・・・orz 雰囲気で読んでいただければ幸いです。。。 嘉月は何がしたかったんだろう・・・なんて考えてはいけません!(おい 笑) いつものように押し付けさせていただきます!!貰ってやってください!! ではでは、不肖嘉月、くしさま方のますますのご健勝をお祈りさせていただきます!! |